戦時中に禁書となり、戦後出版できるということは、私にとって喜ぶべきことではない。
(著者 ドルトン・トランボ)

こないだ、これの日本語吹き替え版 映画(検)をブログに書いたね、今回はその原作。

『ジョニーは戦場へ行った』('S46/角川文庫、ドルトン・トランボ著、信太 英男 訳) をLog.る。

手元にあるのは、H3/四十八版のもの。日本では読み継がれ続けてる 発禁本。


彼の頭が両脚より低い位置にあると思えたのはそのせいだ。彼には両脚がないからだ。もちろん脚は軽そうに見える。空気も軽い。足指の爪ですら空気に比べれは重いというのに。
彼には両腕かなく両脚もなかった。
頭をそらせ、こわさにおびえ悲鳴をあげはじめる。だがはじめただけだ。彼には泣きわめく口がなかったからだ。人がなにかに食欲をそそられ、味わってみたいと思うように、彼はあごも使おうとしたのだが、泣きわめくこともできずに寒気を覚えた。口がないのなら、ゆっくり調べてみればわかる。夢にちがいないと彼は固く信じた。そこであごを使おうとした。あごはなかった。木いちごの種を探そうとでもするかのように、舌を歯の裏側と口蓋部にはわせようとした。しかしはわせる舌がないし歯もなかった。彼は飲みこもうとしたのだが、口蓋部がないし、飲みこむための筋肉がひとつも残っていなかったからできるはずがなかった。


ジョニーはまだ二十歳だったんだね、映画('71/米) だともう少し大人に見えたんだけど、16で徴兵され、二十歳でこんな有り様って、想像出来る?


父さん、ぼく父さんの釣りざおを失くしちまったんです。魚が強く引っぱって、気がついてみたら釣りざおが水の中へとんでいました。あちこち捜してみたんだけれど、かいでさぐってみたんだけれど、見つかりませんでした。失くしたんです。
五分くらい父は声を出さなかったようだ。父は少し身体の向きを変えた。とつぜん父の腕が彼の胸にのってきた。その暖かい、気持ちのいい重みを彼は感じた。最後の親子の旅行を釣りざおみたいなちっぽけなことできずつけたくはないだろう、なあお前?
それ以上父はなんにもいわなかった。だから彼はじっと横になったままだった。父はこれがふたりの最後の旅行であるとわかっていたのだ。


父子の切ない…
これは、映画を観たあと原作を読むと余計によく理解できた。名シーン…

失くした釣り竿が、ただの釣り竿でないところが肝心。父親の人生を通して唯一の道楽、それが何より大切な宝物、な筈だった事で、真にいちばん大切なものが何か、ひしひし伝わる描写。

映画本編よりも更に、父子の愛情が深く伝わってくる…

そして、ジョニーとモールス信号で意思の疎通が図れると知った軍関係者は、彼に何が望みなのかと訊ねる。


大馬鹿なやつらよ、俺の願うものを知れ。彼らが何を与えられるかを知れ。彼はむろん彼らが与えられないものを願った。

彼は見る目がほしかった。日の光、月の光、青い山、高い木、小さなアリ、人の住む民家、朝になると花びらを開く花々、地上の雪、小川のせせらぎ、行き交う汽車、人々の歩くようす、ドタ靴とたわむれ、退き、うなり、すっとび、ものすごい顔つきになり、底にじゃれつき、こんどは真剣にそれをくわえる子犬を見る二つの目がほしい。

彼は鼻がほしい、鼻があれば雨や、燃える森や、料理の数々や、女の子が通り過ぎたあとにただよう、微かな香水等のにおいを嗅ぐことができる。

彼は口がほしい。口があれば食べ、おしゃべりし、笑い、ものを味わい、キスすることもできる。

彼は両腕両脚がほしい。両腕両脚があれば、働き、歩き、人間のような生きものになることができる。



自分の置かれた境遇が、当たり前だと感じる、何も真実を見たことのない、見ようとしない人達は、このジョニーの儚い、かなわぬ夢を、これは小説の中の出来事、フィクションだと鼻で笑うのだろうか?

これは当然、ではないかもしれない、と、疑ってみたりはしないもの?

それが出来るくらいなら、自分の望みの為だけに誰かを利用する、なんてのを実行したらどうなるか?くらい解るはず。

そしてその行いは必ず自分に還って来る、てことも…

愛と肉欲は永遠に平行線だよ、紛らわしいけども…

そこに気付くのが遅ければ遅いほど生命を無駄に消費する、って事。

目の前に居るその人は、果たして愛情?欲求?見栄?何を希み君の側にいる?

ジョニーは、それを見抜く心の眼、より、もっと当たり前の、片方の肉眼、すら永遠に持つ事は叶わない。


でも 彼は、真実を誰よりも知っている…


この小説の著者と、映画の監督は同じ人だけども、映画では、原作には無いシーンがいくつかある。

が、ネタばらしはしないどこう…

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※ 引用。